光待つ夜        後編




夜明け前に産婆と松本法眼が相次いで屯所に到着した。
ほぼ同時に女手の無い屯所だからと前々から打ち合わせてあった里乃と
八木源之丞の妻女雅が飛び込んでくる。
あっという間に離れの一室は産所の仕様にしつらえられ、男達は部屋を出された。

それでも気遣わしげに家の前を行ったり来たりしている総司を促して
松本が幹部棟へと足を向けた。

「いくらヤキモキした所で初産の時は最低でも半日は生まれねぇ。
 それよりお前には話しがある」

松本の厳しい声音に総司は身を竦めた。



客間に通された松本が強い視線で総司を睨みつける。

「・・・セイの様子がおかしいと、気づかなかったとは言わねぇだろうな」

「・・・・・・はい・・・・・・」

「こんな夜更けにフラフラ出て行くほど、何かに追い詰められているって事も
 察知してなかったはずはねぇだろうな?」

松本を迎えに行った原田から一部始終を聞いていたらしく、その言葉は鋭い。

「ですが私は武士です。セイは武士の妻です。私の小さな怪我如きに気を乱す
 なんて事はあって良い事じゃない・・・」

力無く視線を畳に落としながら総司が呟く。
共に室内に入ってきていた斎藤と土方が溜息を落とした。

「普通だったら問題なかっただろうがな・・・」

土方が口を開いた。
セイの気性は土方だとて知っている。
総司が何より大事な女子なのは確かだが、それでもこんな形で周囲に
心配をかけるような浅慮な者ではない。
恐らく腹に子を宿しているという事が、セイの心を通常の状態から
逸脱させていたのだろう。
言葉にしなかった土方の内心を継ぐように斎藤が言葉を続ける。

「子を宿すという事は、神谷でさえ不安定にするものなのでしょうな」

「それだけじゃねぇ」

松本の言葉に総司が視線を上げる。

「セイの奴は自分が母親になるって事に無意識の内で不安を持っていたんだ。
 以前ちらと言っていた事がある。隊で過ごした時間、自分は確かに武士で
 あろうと女子の部分を捨て去っていた。その意味で女子として未熟なのだと。
 そんな自分が母となる資格があるのか、とな」

男達の脳裏に仲間に混じって必死に刀を振っていた小柄な隊士の姿が浮かんだ。
武士であろうとして精一杯に己を鍛え、誰よりも威勢の良かった隊士だ。
けれど幾重にも重なった木々の葉であろうと、眩い陽射しを完全に遮る事は
出来ぬように、女子特有の気遣いや優しさは木漏れ日のように折に触れて
漏れ出していたものを。
傷ついた同志の手当てをする優しい手つきが。
賄所で笑いさざめきながら総司の為に甘味を作っている姿が。
今思えば隠しようも無い女子の性を現していたではないか。

「セイは・・・ちゃんと女子でしたよ。いえ、そう言っては神谷清三郎に失礼ですね。
 ・・・女子の部分も捨て去ってはいなかった、と言えばいいのかな」

「ああ、そうだな・・・」

総司の言葉に斎藤が頷く。

「つまり二重三重に神谷は思い悩んでいたって事か」

ポツリと零した土方の言葉に松本が苦い顔で答えた。

「ああ。ただでさえ子を腹に宿すと精神が乱れるんだ。それは以前お前達にも
 言って聞かせたはずだがな・・・。セイのやつも、もっと早く里乃か誰かに
 相談でもすればいいものを」

そんな小さな事でも不安の一部なりと解消できただろうに・・・と続けた松本に
総司が苦く笑う。

「あの人は意地っ張りですから・・・」

小さな呟きを残して静かに部屋を出る後姿を、男達は気遣わしげに見送っていた。





最近のセイの様子がおかしい事は気づいていたけれど自分の前では
生まれてくる赤子の性別を楽しげに予想したり、産着の準備を確認したりと
精一杯明るい表情を浮かべようとしていた。
だからそんなセイの気遣いを無にせぬようにと、自分も普段同様に過ごしていたのだ。
けれどそれがセイの心の澱を吐き出す術を奪っていたのなら・・・。

少し前に明けた空には重い雲が今にも雫を落しそうに広がっている。
総司の足は無意識に自分達の住まいとなっている離れへと向かっていた。
木立に囲まれたその場所では、今まさしくセイが女子としての戦をしているのだ。
幾重にも絡み合った不安を抱え、その華奢な身には大きすぎる荷を負ったまま
母となるべき戦場で戦っている。

「あああっ!!」

閉ざされた障子の向こうから響いてきたセイの悲鳴に総司の体が強張った。
木々が途切れた場所から家の小さな縁側までは三間ほど。
総司の足ならほんの十数歩にも満たないその距離が、地の果てほどにも感じられて
次の一歩を踏み出す事が出来ない。

「うっ・・・つっぅぅぅっ!!」

じわりと額に冷たい汗が滲んできて、乱暴に着物の袖で額を拭った。
自分がどれほど思い悩もうとも、実際の力にはなれない事を実感する。
けれど前へと進めぬ足を、後ろへ戻したいとも思えないのだ。
何も出来ないと知っていても、せめてこの場で心だけでも沿わせていたい。

――― どさり

総司はその場に腰を下ろした。
そのまま胡坐をかき両膝に手を添えると、じっと見えない障子の向こうを
見つめ続ける。



「沖田センセ?」

何かを取りに出てきたらしい里乃が、庭先へ座した総司の姿に驚いたように
目を見開いた。
人一人が通れる程度に開いた障子の隙間から、中の様子を少しでも窺う事が
出来ないかと必死に目を凝らそうとするその姿に、里乃が困ったように
微笑みながら障子を閉じる。

「そないなとこに居はっても、まだまだややは生まれませんえ。早くても昼は
 過ぎるやろて産婆さんも言うてはります。初めての子ぉやし夕刻あたりに
 なるんやないやろか。屯所で待ってはった方が・・・」

「いいえ。私はここにいます。ここで待ちます!」

少しも譲る気は無い事が、その言葉の強さに表れている。

「ふぅ・・・。風邪なんて引かんようにしておくれやす。生まれたてのややに
 うつしたりしたら困りますえ」

諦めたような溜息を落として里乃はその場を離れた。





昼を過ぎてもセイの悲鳴が続くばかりで一向に赤子の泣き声は聞こえてこない。
苛立つ内心を押し込めて総司はその場に座り続けた。
繰り返される悲鳴を聞くたびに膝を握り締める手に力が篭り、今にも袴の
その部分が破れそうだ。
ぽつり、と頬に冷たいものを感じて顔を上げた。
とうとう耐え切れなくなったのか空から冷たい雫が落ち始めた。
その水滴が繰り返し声を上げ続けるセイの心の涙のような気がして、総司は
かざした手に冷たい雨粒を受けていた。

武士の妻が夫の些細な怪我などに動じてどうする、と先程松本達に告げた
自分の言葉が思い出される。
セイをどうこう言えた義理か。
武士たるものが妻の出産如きにこれほど心を乱され、その場を動く事さえ
出来ずにいるのだ。
余程自分の方が情けないではないか。

そう判っていても動く事が出来ないのだ。
これが自分が恐れていた柵(しがらみ)なのだと改めて恐怖が襲ってきた。
愛しい者達と武士としての矜持を天秤にかけた時、以前のように武士の誇りを
迷い無く選ぶ事が出来るのだろうか。
今の自分にそれを言い切る自信など無かった。


全身を冷たく叩いていた雨がふいに感じられなくなり、怪訝な思いで
頭上を見やると背後から近藤が傘を差しかけていた。

「近藤せんせい・・・」

余程にその表情が情けないものだったのか、一瞬困ったように眉根を寄せて
泥に汚れるのも構わずにそのまま総司の隣に座り込んだ。

「近藤先生っ、汚れますからっ!」

慌てた総司の言葉にも笑みを浮かべたままで動こうとはしない。

「私にとっても神谷君は娘のようなものだ。総司、お前は息子も同様だ。
 今、生まれようとしているのは私の孫なんだからな・・・。
 息子と共に無事を祈っても良いだろう?」

総司に傘を差しかけたまま、照れくさそうに告げるその声音は
滔々と流れる大河の深みを感じさせた。
背後に複数の気配を感じて総司が振り向くと、幾人もの隊士達が傘を差して
じっとセイの産室の様子を窺っている。
その中から土方が歩み寄ってきて、近藤と反対側に総司を挟むようにして座った。

「西本願寺の坊主共が安産祈願の読経をあげてるそうだ」

土方の言葉に驚いたように総司が目を見開いた。

「土方さんが?」

この神仏など信じようともしない男が指示を出したというのだろうか。
にわかには信じられないと総司だけではなく近藤の表情にも驚きが現れている。

「俺じゃねぇよ。伊東の野郎が“御仏のお膝元にありながら、か弱い女子に
 仏慈悲が与えられないなどとなったら、寺の名折れではないか”と
 掛け合ったらしい」

苦々しげな口調ではあるけれど、それを止めなかったのは確かなのだろう。
不器用な兄分の気遣いに総司の強張った頬に小さな笑みが浮かぶ。

「サノもな。かみさんが出産した時に霊験あらたかだったとかいう下賀茂神社へ
 祈願するって飛び出してったぜ。その神社のおかげで安産だったってな」

「え? でも今日の午後は原田さんの隊が巡察だったんじゃ・・・」

巡察当番を頭に描いた総司が首を傾げた。

「源さんがサノの代わりに十番隊を連れて出てったんだ。
 ったく誰も彼も神谷に甘くていけねぇ・・・」

ぶつぶつと言い続けているこの鬼だとて、何のかのとセイを気遣っている事は
誰もが知っている。
現に原田の変わりに井上が出る事も、副長の許可がなければ出来る事では無い。
こうして皆がセイと生まれ来る新たな命の無事を願っているのだ。

そうだ。
自分だけではない。
けしてセイや赤子は柵などではなく、自分の武士の矜持を揺らがせる
存在ではないのだ。
むしろ愛しい者を守る為に自分の力は何倍にもなる事だろう。
大切な者の前に誇りを持って立ち続ける為にも、愛しき者に恥じない自分で
いられるはずだ。
何をくだらない事を悩んでいたのだろうと自分で自分を笑いたい思いがする。

自分の大切な者達を、共に慈しんでくれる仲間を今一度振り返る。
緊張感を宿した一人一人の顔を胸に焼きつけて、どうかその思いが届くようにと
再びの祈りを込め、改めて総司が産所に視線を戻した時だった。

「うっ、あぁぁぁぁぁっ!!」

一際大きなセイの悲鳴が上がった。

(セイッ!!)


いつの間にか雨は止んでいた。
微かに冷えた夕暮れの風が吹きぬける中、男達が息を飲む。

「おセイちゃんっ、あと少しっ!」

里乃がセイを力づけるようにかける声が聞こえてくる。

(((((頑張れっ、神谷っ!!!!)))))

男達の声にならない励ましが場に満ちていく。
誰の耳も産所のどんな小さな物音でさえ拾おうと、意識の全てをそちらに向けていた。

と。


「・・・・・・ったくっ! いつまで母の体にしがみついてやがるんだよっ!
 この甘ったれ坊主がっ!! とっとと出てきやがらねぇかっ!!」



「「「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」」」」

紛れもないセイの怒声に男達は固まった。
妊婦のはずだ。
しかもつい今さっき命尽きるかというほどの悲愴な悲鳴をあげていた、
か弱き女子だったはず。
けれど今聞こえた怒声は自分達が聞きなれたセイのものなのは間違いなくて。
自分の耳がおかしい訳ではないよな、とそろりと男達が周囲を見回そうとした
瞬間。


――― ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃぁぁぁ


闇をも裂くような光を伴い、生を高らかに謳いあげる声が響き渡った。


「あっははははははははは!!」

「神谷の一喝で飛び出してきやがった!」

「絶対に沖田先生そっくりの男児だぜ、こりゃ!」

「おお、元気のいい泣き声だ。気の強さは神谷に似てるかもしれねぇな」

「あっはははは、しかし・・・やっぱり神谷は神谷だぜ〜!」

「赤子でも容赦無しだ。神谷らしいよなぁ」

「でかしたぞっ! 神谷っ、よくやった!」

「いや、まだ男児と決まったわけじゃないだろうよ」

「いいんだよ。無事に生まれたんだ。お手柄じゃねぇか!」

「おお、そうだな。よく頑張ったぞ、神谷ぁ!」


祭りでもこれほど騒がしくはないだろうという程の喧騒の中で、
総司は放心したように障子を凝視したまま動けない。
途切れる事無く続いている赤子の泣き声だけが耳に響き、他のどんな物音も
自分の意識に触れてはこないのだ。

そんな総司の肩に優しく触れる手があった。
ゆるゆると顔を向けた先では満面に笑みを浮かべて近藤が頷いている。
ドンッ!と背を叩かれて、逆に首を回せば土方がニヤリと笑って何事か言っている。
けれど言葉を音として捉えられずに総司の顔がしかめられた。

「沖田センセっ!」

突然赤子の泣き声以外の言葉が形をなした。

「元気な男の子やし! 今産湯を使わせたらそっちに連れて行きますから
 ちゃんと着替えて待っとぃやす」

里乃の言葉に初めて総司の思考が動き出した。

「え、え?」

背後では男児と聞いた隊士達の歓喜の叫びが一段と大きくなっている。

「ほら、早く着替えて来い。濡れた着物では赤子を抱かせて貰えんぞ」

近藤が笑って総司の背を押して立たせようとする。

「お前がさっさと戻ってこねぇなら、俺が代わりに抱いといてやろうか」

土方が意地の悪い笑みを浮かべていた。

「だっ、駄目ですよっ! 最初に抱くのは父の私に決まってるじゃないですかっ!」

ムキになって言い返しながら総司が着替えをする為に屯所へと走り出した。



「お、おい。総司?」

慌てて呼びかける近藤の言葉も聞こえていない。

「歳よ。神谷君の産所にはさすがに入れないと思うが、総司の着物だったら
 隣の部屋に幾らでもあるんじゃないのか?」

目の前にあるのは総司とセイが暮らす家なのだ。
何も屯所の隊士部屋まで着替えに戻らずとも、この家の中には総司の着物など
置いてあるだろうに。

近藤の言葉に、くっくと土方が笑いを零す。

「無駄だよ、近藤さん。今の奴の頭の中は沸いちまってるからな。
 まともな思考なんざ期待できねぇに決まってる」

「確かにな」

兄分二人の笑いが広がっていく。


いつの間にか切れた雲の隙間から金色に輝く夕刻の陽光が射している。
まるで生を得た無垢な赤子を包み込む大人達の祈りを形にしたかのように、
その光は温もりに満ちていた。

新選組の末っ子が生み出した男児は、この後数多の父分兄分達に愛され揉まれ
時に過ぎるほど多種多様な教導を受けながら、逞しく成長してゆく事となる。





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